【書評】『沈みゆく大国アメリカ』に見るアメリカ医療保険制度の複雑さ

アメリカに来て最も驚いたことの一つはアメリカの医療保険制度の複雑さだ。まず、日本の様に健康保険の保険証があればどの病院でも自由に診察が受けられるというわけではない。医療保険は民間の保険会社がそれぞれ違った条件の保険を提供しており、自分が受診する医療機関がその保険でカバーされているかを調べなければいけない。

めでたく保険が適用されることがわかり受診ができても、医療費の支払いも一苦労だ。最初の窓口負担(Copay)は少額だが、それで安心していると、数か月後の忘れた頃に保険会社から保険金額の計算書が送られてくる。その計算式は複雑だが、重要なのは自己免責額(Deductible)と患者負担額(Coinsurance)の合計に、最初の窓口負担を合算したものが自己負担の合計であり、その金額は日本人の感覚からするとかなり高額だ。

そんなただでさえ複雑な医療保険制度に対して、2010年からはオバマ大統領の肝いりの政策である医療保険制度改革法(通称オバマケア)が加わり、ここ数年、少しずつオバマケアの諸制度が施行されていく中で、日本人の在住者にとってアメリカの医療保険制度は更に複雑怪奇になっていった。

そうしたアメリカの医療保険制度の最新の状況を概観できる日本語の入門書として、堤 未果氏著の「沈みゆく大国アメリカ」(集英社新書 2014年)は貴重な書籍だ。本書では、アメリカ現地の様々な関係者の証言を紹介しながら、アメリカの医療保険制度、そして、それをオバマケアがどう変えようとしているのかを明らかにしていく。

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オバマケアの要点は次のいくつかの点にまとめられる。まず、(1)医療保険はこれまでの様に任意加入性ではなく、国民全員に加入義務があり、無保険者には罰金が科せられる。かつ、(2)低所得者の無保険者達が実際に保険に加入できる様、最貧困層の公的保険であるメディケイドの適用枠が拡大される。更に、(3)保険会社が過去の病歴で保険加入を拒否したり、加入者が病気になったことで保険を途中解約することは違法となる。同時に、(4)保険加入者の自己負担額には上限が加えられる。そして、その財源は製薬会社や医療保険会社への増税や、高齢者向け公的保険であるメディケアの改革によって賄われるという。

これだけ見ると大きな改善に思われ、実際にオバマケア成立時にはアメリカ国民の多くが熱狂的に歓迎したが、堤氏によるとその後、国民にとっては多くの想定外の事実が明らかになったという。

例えば、「無保険者に保険を!」とのオバマケアのスローガンの中核であった低所得者層へのメディケイド枠拡大については、メディケイドに対する医療報酬が低いために、メディケイド患者の診療を拒否する病院が続出しているという。それに、メディケイドでは診療代や薬代は保険でカバーされるが、製薬会社が新薬の価格を釣り上げたために、実際に負担をする地方自治体や、その財源である税金を納める中流以上の国民は、負担増に悲鳴を上げているという。

また、病歴による加入拒否が廃止されて喜んだHIV患者や、自己負担額の上限設定に涙した難病で医療破産寸前の患者も、自らが必要とする薬がオバマケアの処方薬リストに含まれていないことを知って愕然としたという。

こうした状況を踏まえて堤氏は、オバマケアは貧困層のための医療制度改革ではなく、医療保険会社や製薬会社が自らに莫大な利益をもたらすために仕掛けた新たなマネーゲームであると断ずる。例えば、日本と違って政府が薬価交渉権を持たず、製薬会社が自由に新薬の価格を決められるアメリカでは、オバマケアの様に製薬会社への増税に基づく医療制度改革を行っても、製薬会社が新薬の値段を釣り上げ、増税を遥かに上回る利益を上げることができるのだ。医療保険会社にしても、オバマケアで定められた条件を満たす代わりに、保険料額の値上げを実施できることで増税の不利益は薄い。更に堤氏は、オバマケア法案自体も、元保険会社の重役が回転ドアによって政府の内部に入り込んで書き上げたものだとまで主張する。

結果として、オバマケアが救うはずだった中流以下のアメリカ国民はもちろん、過剰な報告義務や医療行為上の制約を課せられた現場の医師達も疲弊してしまっているという。

堤氏が更に問題にするのは、そんな現状をアメリカ国民の多くが理解していないことだ。大半のアメリカ人は医療保険制度の仕組み自体も正確には知らないという。確かに私自身も共和党支持者の多いアメリカ南部で、「オバマケアは社会主義だ」など、オバマケアへの不満は何度も耳にしてきたが、その実、具体的に何が問題なのかと問うと、明確な答えは返ってこなかった。そうしたオバマ大統領の政策に対する漠然とした怒りが、現在のトランプ氏やサンダース氏へのポピュリズム的な支持にもつながっているのだと思う。

その点、本書を読んで、漸くアメリカ医療保険制度をめぐる動きの全貌が俯瞰でき、ひいては、医療保険制度に限らず、一部のエリート層がアメリカ社会をどう変えたいと思っており、それに対して中流以下のアメリカ人の不満がどの様に高まっているかについても、理解を深めることができた。

しかし、オバマケアが医療保険会社や製薬会社が莫大な利益を上げるために作られた法律だとする著者の主張には疑問も残る。これまで何人もの指導者が無しえなかった国民皆保険というシステムをまがいなりにも成立させたこと自体はオバマケアの大きな功績だと思うし、今後、医療保険会社や製薬会社に負担増を強いる追加の改革次第では、低所得者層に実利をもたらす運用も可能かもしれない。ロビイズムが盛んなアメリカの政治の舞台で、最初から理想通りの改革を成し遂げることは困難だろう。

また、本書には、オバマケアによってメリットを得た患者や医療関係者のインタビューが全くないのも不自然に感じられるところだ。今後、他の関連書籍も読んで多角的な理解を深めてみたい。

ともかくも、アメリカの医療保険制度の複雑さに悩まされた人にこそぜひ読んでほしい一冊だ。本書は、その医療保険制度において強者に食い物にされないために、自分で調べ考えるためのヒントになることは間違いない。

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