惨劇から50年を経て―テキサスの大学で銃の所持が合法化

最近日本でも、アメリカでの銃にまつわる事件を見ない週はないと思える程、警官による黒人射殺事件やその報復としての警官銃撃事件が多発しているが、アメリカ南部テキサス州では8月1日から、銃撃事件を増やしかねない法律が施行された。テキサス州ヒューストンの地元新聞Houston Chronicle電子版の8月1日付の記事Guns are allowed on Texas college campuses. Now what?(銃はテキサスの大学のキャンパスで許可された。そして何が起きる?)によると、今月からテキサスの公立大学の構内で誰でも銃を所持することが合法化された。期せずして、2016年8月1日というのは、大学での銃所持に関してテキサスの人々の記憶に残る惨劇から50年後であり、それがこの法律に関する論争を劇化させている。

今から50年前の1966年8月1日、元海兵隊員のチャールズ・ウィットマンは、テキサスで最も有名な大学であるオースティンのテキサス大学(University of Texas)で、当時一般公開されていた時計塔の展望台に登っていった。307フィート(約94メートル)ある時計塔の展望台に着いた彼は、突如としてライフルを取り出し、眼下に見える人々を狙撃し始めた。海兵隊で射撃兵だった彼の銃口は90分で15人を殺害し、32人を負傷させるに至る。後になって判明したことでは、彼は脳腫瘍によって、感情のコントロールが困難になっていたのだ。

但し、銃口を向けられた人々もただ黙って撃たれていたわけではない。当時、テキサスの公立大学では銃の所持が合法化されていたため、テキサス大学の学生達は自らのライフルを手に取り、次々に時計塔のウィットマンを撃ち始めた。日本の大学では到底想像できない光景ではある。学生達の反撃がどの程度影響したかは不明ながら、最終的にウィットマンは駆け付けた警察官によって射殺される。

この事件は、アメリカの歴史上稀に見る大量射殺事件として記憶され、その後アメリカ全土の警察でSWATチームが広く配備されるきっかけともなった。しかし、テキサスの銃支持論者にとっては、この事件において一般の大学生たちが銃を手に取って反撃したという事実は長く、大学での銃所持を認めることの利益の実例として扱われ、今回の銃所持合法化においても、遂に生徒達が銃で自身の身を守ることができる様になったと歓迎する。

とは言え、多くの人々にとっては、大学という静かな環境で勉学に励む場において銃所持が合法化されるのは好ましいことではなく、オースティンのテキサス大学やヒューストンのヒューストン大学の教授陣の中には、今回の法律施行を理由に、テキサスを去ることを検討している人々もいるという。

アメリカで銃を巡る社会的緊張が高まる中、今回の新法施行が大学における新たな銃による惨劇のきっかけにならないことを切に願いたい。

↓下の写真はヒューストンにあるアメリカ南部で有数の私立大学であるライス大学のキャンパスの風景。テキサス州の私立大学では銃の所持が各大学の方針に委ねられており、ライス大学では構内における銃の所持が禁止されている。(Rice University Campus Carry

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黒人のダラス警察署長デービッド・ブラウン氏の次なる戦い

7月7日、アメリカ南部テキサス州の大都市ダラスで警官が襲撃され、5人が死亡した事件から2週間が経ち、ダラスの警察署長であるデービッド・ブラウン氏は、事件の解決おいて発揮した優れたリーダーシップに加え、その壮絶な人生により世界的に有名になった。

彼の人生は既に日本のメディアでも紹介されているが、ここで改めて振り返ってみよう。彼は黒人として、サウス・ダラスのスラム街で生まれ育ち、1980年代のコカインによる街の荒廃を目の当たりにして警官になろうと決意したという。しかしその後、彼は自分の兄弟や警官としての最初の相棒を銃の事件で亡くし、更には6年前にダラスの警察署長になった直後、自分の息子が警官を銃で殺害し、別の警官に射殺されるという衝撃的な事件に直面する。しかし、彼はその悲劇を乗り越えて警察署長を続け、警官と地域住民の良好な関係を築くために「コミュニティー・ポリシング」という手法を導入し、ダラスの犯罪件数は低下する。

↓日本のメディアによる報道の例はこちら

警官銃撃事件のダラス市警察署長、銃による悲劇のキャリア 息子も失う

ここまでであれば、まさに英雄的な物語であるが、ブラウン所長には日本のメディアには報じられていない戦いが待っている。ダラスの地元新聞Dallas Morning News電子版の2016年7月18日付の記事Weary and worn, Dallas police face the end of mourning and the return of lingering problems(疲労困憊したダラス警察の喪が明け、懸案が戻ってくる)によると、事件が起こる前、ダラス警察における彼の立場は決して良好な状態ではなかった。凶悪犯罪の発生率の上昇に対して、ブラウン所長が部下の警官のスケジュールや担当業務を頻繁に変更したことで、警官達の疲労と不満が募り、警官達が組織する諸団体は昨年、二回もブラウン警察署長の辞職を要求していた。

警官達はブラウン所長が独裁的で復讐心が強く、自分の好きなことばかりやっていると考えており、多くの警官がより良い給料を求めて、テキサス北部の他の都市に去っていったという。また、世界的に称賛された「コミュニティー・ポリシング」というブラウン所長の方針も、警官が子供達とスポーツに興じている間に、街中でパトロールに当る警官の不足を引き起こしていたと批判されている。

しかし、襲撃事件はダラス警察における彼の立場を一変させた。彼は未だに論争を呼んでいるロボットによって容疑者を爆発させるという決断を行うとともに、公の場で、警察に過剰な責任が押し付けられていることを嘆き、デモの参加者に対しても、デモ行進から離れて警察に参加する様に呼びかけた。結果として、これまで彼を批判していた警察内の人々が、一斉に彼を称賛し始める。

とは言え記事は、襲撃事件の喪が明ければ、ダラス警官達のブラウン所長に対する厳しい視線が戻ってくるだろうとも指摘している。但し、ブラウン所長の味方は増えている。同じDallas Morning Newsの2016年7月22日付の記事DPD flooded with job applications since downtown ambush(ダラス警察にはダウンタウンでの襲撃以来、仕事の応募が押し寄せている)によると、事件後の二週間でダラス警察への仕事の応募は前月の同じ期間の3倍となったという。ブラウン所長はかつて、ダラスにおける人種間の緊張を改善する方法について聞かれてこう答えている。

“I’ve been black a long time.” (私は長い間黒人であり続けているんだ。)

“It’s my normal to live in a society that’s had a long history of racial strife. We’re in a much better place than we were when I was a young man here, but we have much work to do, particularly in our profession. Leaders in my position need to put their careers on the line to make sure we do things right.”

(私にとって人種間の長い闘争の歴史を抱えた社会に住むことは普通のことだ。我々は私が若者だった時と比べてはるかに良い状況にあるが、特に我々の職業において、まだやるべきことは多い。私の役職につくリーダー達は、自分達が正しいことをしているかを確認する道のりの中に自らのキャリアを置かなければならない。)

ここからは私見だが、白人警官が黒人を射殺したり、暴行を加える事件が頻発し、黒人の側が白人警官を射殺する事件まで続く中、殺害されたダラスの警官のトップが黒人だという事実は、一連の事件を白人対黒人の人種問題という構図に単純化できない重要な要素となっている。しかも、ブラウン所長は貧富の差や、麻薬問題、銃犯罪の増加やそれに対する規制の問題という、現代アメリカが抱える多くの問題を自らの人生を通じて体現してきた人物だ。彼の発するメッセージに今後も注目していきたい。

写真はダラスで最も有名な銃撃事件、1963年のケネディ大統領の暗殺の現場。現在は銃撃現場が博物館となっている。

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一連の黒人射殺事件に対してビヨンセは愛と正義を訴え続ける

アメリカ南部を中心にこの数週間で起きた黒人を巡る一連の事件は、アメリカに限らず日本を含めて全世界で連日大きく報道された。日本においては、アメリカにおける人種問題が如何に根深いかを多くの日本人に印象づけたことだろう。筆者は当ブログで日本にはなかなか伝わらないアメリカ南部の現在を伝えようとしてきたが、正直なところ、今回の事件は私の想像を大きく超えていた。では、このブログでは何が伝えられるだろうか?

事件についての分析は既に多くの専門家が行っているためここでは避け、このブログではテキサス州ヒューストン出身で、黒人差別に対して最近、積極的なアピールを繰り返しているアメリカを代表する歌姫ビヨンセが、今回の事件にどう対応したかに注目してみたい。私達の世代にとって、最も身近な黒人アメリカ人である彼女の行動が、一連の事件の背景となっているアメリカ社会が抱える問題を理解するヒントになると思うからだ。

↓ビヨンセについて書いた以前の記事はこちら

アメリカ南部の歌姫ビヨンセのニューアルバムLemonadeが持つメッセージ

まず、事件の経緯を振り返ってみよう。事の始まりは、7月5日、ルイジアナ州の州都バトンルージュで、アルトン・スターリング氏という黒人の男性が白人警官によって射殺されたことに始まる。射殺の目撃者達はその現場を動画で撮影し、インターネットに投稿された動画は白人警官達が不必要に彼を射殺している様に見え、全米で大きな波紋を呼んだ。そして、翌7月6日、今度はミネソタ州で、交通違反で呼び止められた黒人のフィランド・キャスティル氏が白人警官に射殺され、同乗していた彼の恋人がフェイスブックにその一部始終を動画で公開した。事ここに至り、黒人達の憤りは頂点に達する。

そうした状況に対して、ビヨンセも敏感に反応し、7月7日の時点で自身のホームページにFreedomと題した文章を発表する。その文章は次の様な強い言葉で始まる。

“We are sick and tired of the killing of young men and women in our communities. It is up to us to take a stand and demand that they ‘STOP KILLING US.”

(私達はコミュニティの中で若い男女が殺されるのにすっかりうんざりしているわ。私達次第で、私達は立ち上がり、彼らが「私達を殺すのを止める」様に要求することができるのよ。)

といっても、ビヨンセは暴力的な行動を推奨しているわけではない。文章の最後を彼女は次の様に締めくくり、各地の議会に連絡するためのリンクを張っている。

“Click in to contact the politicians and legislators in your area. Your voice will be heard.”

(あなたの地域の政治家や議員に連絡するためにクリックして。あなたの声は聞き届けられるわ。)

また、この文章が黒人差別だけに限った狭い訴えにならず、全てのマイノリティーに向けたメッセージとなる様にも配慮している。

“This is a human right. No matter your race, gender and sexual orientation. This is a fight for anyone who feels marginalized, who is struggling for freedom and human rights”.

((警官によって命を失われないこと)は、人種やジェンダーや性的志向に関わらず一つの人権なのよ。これは疎外されていると感じている全ての人々、自由と人権を求めて苦闘している人々のための戦いなのよ。)

しかし、ご存じの通り、事態は予想外の悪化を見せる。7日夜になって、ビヨンセの地元テキサス州の州都ダラスで、黒人射殺に抗議する平和的なデモ行進が行われていた中、最近の黒人射殺事件に腹を立てたという元軍人の黒人の男性が、白人警官を銃撃し、5人の警官が死亡した。

こうした時ビヨンセの様な影響力のある人物の発言はバッシングの対象にもなる。ワシントンポスト紙の2016年7月10日付の記事Beyonce is a powerful voice for Black Lives Matter. Some people hate her for it.(ビヨンセは”Black Lives Matter”運動にとって強力な発信者だが、それを理由に彼女を嫌うものもいる)によると、一部の保守的なメディアは、上記の文章を含むビヨンセの発言が警官に対する暴力を助長したと非難しているという。

ビヨンセはそうした非難に対して自身のインスタグラムで動画によるメッセージを発表した。動画は白黒の映像で、テキサス州旗の映像と交互に、射殺された警官達の名前が映し出されていく。また、動画にはビヨンセによる下記のメッセージが添えられている。

Rest in peace to the officers whose lives were senselessly taken yesterday in Dallas. I am praying for a full recovery of the seven others injured. No violence will create peace. Every human life is valuable. We must be the solution. Every human being has the right to gather in peaceful protest without suffering more unnecessary violence. To effect change we must show love in the face of hate and peace in the face of violence.

(昨日ダラスで不合理に命を奪われた警官の皆様のご冥福をお祈りします。また私は負傷した他の7名の方々の完全な回復を祈っています。いかなる暴力も平和を生み出しません。全ての人間の命は価値のあるものです。私達は(人種問題を)解決しなければなりません。全ての人類はこれ以上の不必要な暴力に苦しむことなく、平和的な抗議のために集まる権利を持っています。変化をもたらすために、私達は憎しみに対して愛を、暴力に対して平和を示さなければなりません。)

デスティニー・チャイルドの時代から、長年にわたってアメリカのポップスの頂点で活躍してきた歌姫が、自身のキャリアを危険にさらしてまで、自らが信じる正義に根差した積極的な発言を繰り返している。時に現実は、私達の、そしてビヨンセ自身の想像をも超える。しかしぶれることなく発言を続ける彼女のメッセージがアメリカ社会にどう影響しうるか、引き続き注目していきたい。

 

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Brexitの次はTexit!? テキサスの独立が一部で盛り上がる

EUからの離脱への投票が多数を占めたイギリスの国民投票は現在もイギリスの国内外で大きな波紋を呼んでいる。イギリスの離脱はBrexitと呼ばれていたが、アメリカ南部テキサス州ではBrexitならぬTexitが一部で盛り上がっている。

ツイッターではテキサスのアメリカ合衆国からの離脱を意味する#Texitと呼ばれるハッシュタグが増え、ヒューストンの地元新聞Houston Chronicleの2016年6月27日付の記事Trump says Texas won’t secede if he’s president(トランプは自分が大統領になればテキサスは離脱しないだろうと言った)によれば、そうした動きを受けて、共和党の大統領候補であるドナルド・トランプ氏までが、「自分が大統領になればテキサスは離脱しないだろう、なぜならテキサスの人々は自分のことが好きだからだ」、と発言したという。

テキサスの独立への動きがイギリスのEU離脱を受けたネット上の一部の盛り上がりのみであれば、このブログで取り上げることはしない。しかし、そうした動きは決して今に始まったことではない。

1990年代後半よりダニエル・ミラー氏を中心としたTexas Nationalist Movementと呼ばれる組織がテキサス独立を目指した運動を活発化し、2013年初めには10万人以上の署名を集めた上で、ホワイトハウスに対してオンライン上での請願をするに至った。2013年1月13日付のNY Timesの記事White House rejects petitions to secede, but Texans fight on(ホワイトハウスは離脱を求める請願を却下した、しかしテキサスの人々は戦い続ける)によると、ホワイトハウス側も、結論はテキサス独立を否定するものとは言え、同請願に対して正式な回答をしている。

もちろん、Texas Nationalist Movementの主張は、テキサスにおいてもごく一部の人々に支持されているのみである。しかし、10万人以上の署名を集め、オバマ大統領の民主党政権も共和党のドナルド・トランプ氏も無視できない存在になっている運動が具体的に何を主張しているのかを見ることは、現在のテキサス社会、ひいてはアメリカ社会を考える上で参考になるだろう。

Texas Nationalist Movementのウェブサイトによると、テキサス独立を求める署名は現在では26万票以上に達し、テキサス独立が必要な理由として次のポイントを挙げている。

・テキサスはテキサス内部で完結する政府を得ることになる。

・テキサス独立はテキサスの人々が欲しているものだ。

・テキサスは自分達で選んだ政府を得る。

・無制限の支出や負債という失敗をした連邦の政策から離れる。

・国境を安全にし、まともな移民政策を作る。

・実体価値に基づく健全な財政政策を実施する。

・テキサスとアメリカ合衆国は政治的、文化的、経済的に異なる道を歩んでいる。

・独立はワシントンの官僚達がテキサスの人々が苦労して稼いだ資金を吸い上げることに終わりを告げる。

独立の同語反復にしかなっていない様なものもあるが、財政や移民に関するいくつかのポイントはドナルド・トランプ氏にも通ずるものがある。その意味では、もし11月の大統領選挙でヒラリー・クリントン氏が当選し、民主党政権が続くことになれば、テキサス独立運動も更に勢いを増すことが予想される。

テキサスの道路を運転していると、アメリカの国旗と同じ高さで、テキサスの州旗であるLone Starが高々と掲げられているが、こうした風景はアメリカの他の州では見られないものだ。また、テキサスの人々は良く、テキサス州はアメリカの州の中で唯一、法的にアメリカ合衆国から離脱する権利を有していると口にする。イギリスのEU離脱も、トランプ氏の躍進も初めは多くの人々が冗談だと思っていたことだった。その点、テキサスの人々が元から有する独立心が何らかのきっかけで大きな政治的動きにつながり得るか、引き続き注目していきたい。

なお、上に引用したNY Timesの記事によると、南北戦争後の1869年に出されたテキサス対ホワイト事件での最高裁判決では、アメリカ合衆国の個々の州は合衆国から離脱する権利を有しないと述べられており、2013年のTexas Nationalist Movementによる請願に対するホワイトハウスの回答にもその判決が引用されている。こうした判例をテキサスの人々がどう捉えているのかも合わせて調べていきたい。

写真はテキサス独立の象徴であるサンジャシントのモニュメントと州の名前を冠した戦艦テキサス。IMG_0124

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アメリカ最高裁が中絶を制限するテキサス州法を無効と判決した経緯

久しぶりにテキサス州の話題が日本のニュースに登場したと思ったら、またもや、テキサスが如何に保守的かを示すような話題だった。

米最高裁、中絶制限の州法「無効」 女性の権利支持

この判決は、民主党のヒラリー・クリントン氏が早速ツイッターで「テキサスと全米の女性の勝利だ」とツイートするなど、テキサス州としてのローカルな話題に留まらず、11月のアメリカ大統領選挙の一つの争点ともなりそうな勢いだ。実際、アメリカ南部ではテキサスに限らず、他の州でも同様の中絶制限法の無効を求める訴訟が相次いでおり、今回の最高裁の判決はそうした同様の訴訟に影響を与えることは間違いない。

しかし、今回テキサス州の訴訟が最高裁による憲法判断まで至ったのは、中絶賛成派と反対派の間での長い論争の歴史がある。我らがヒューストンの地元新聞であるHouston Chronicleの6月27日の記事U.S. Supreme Court strikes down Texas abortion rules in landmark ruling(アメリカ最高裁は画期的な判決によってテキサスの中絶法を無効にした)に詳しく書かれているのをまとめてみよう。

事の経緯はまず2013年1月、当時のテキサス州知事で今回の大統領選挙でも序盤に共和党から立候補していたリック・ペリー氏が「いかなる段階の中絶も過去の遺物とする(to make abortion at any stage a thing of the past)」と発言したことから始まる。当時のテキサス州では、40以上の中絶クリニックが開業していた。

リック・ペリー氏の熱意はHouse Bill 2と呼ばれる中絶制限法案に結実し、今回の最高裁の判決において問題とされた近隣の病院における医師の入院特権(Admitting Privileges)の必要性やクリニック外科手術の設備に関する厳しい規制に加え、妊娠20週以降の全ての中絶の禁止や中絶ピルの使用制限などが含まれていた。それに対して、民主党の上院議員で女性の権利の熱心な擁護者でもあったウェンディー・デービス氏は、スニーカーを履いてテキサス州議会で11時間に渡るフィリバスター(長時間に渡る演説を行い意図的に議会の進行を遅らせること)を行い、全米レベルで有名になった。

しかし、ウェンディ―・デービス氏の努力もむなしく、中絶制限法は可決した。テキサス州の小規模なクリニックにとって、入院特権を確保することや厳格な外科手術の設備を備えることは難しく、40以上あった中絶クリニックは現在では20以下にまで減少している。

そうした状況に対して、女性の権利を擁護する団体は中絶法の無効を求める二つの訴訟を起こした。テキサス州オースティンの一審では二回とも無効判決を得るものの、ニューオーリンズの控訴審では二回とも退けられる。そして、最高裁も最初は審理を拒否したものの、最終的には事件を受理し、今回の無効判決に至った。

但し今回の最高裁の判決はあくまでも、テキサス州法における入院特権の取得や厳しい外科手術施設の整備などが小規模なクリニックに閉鎖を迫る過剰な負担(undue burden)であるとして無効と判断されたものであり、それ以外のテキサス中絶法は引き続き有効となっている。更に残された中絶クリニックはテキサス州の中で大都市にしかなく、テキサス州の地方に住み中絶を望む女性は数日間家を空けることを強いられる。

ともあれ、女性団体は今回の判決を喜んでおり、特に議会でフィリバスターを決行したウェンディー・デービス氏は涙を流しながら、「本件はテキサスの女性にとって、そして全米の女性にとって素晴らしいニュースであり、かつてテキサス中の女性が有していた中絶クリニックへのアクセスを取り戻すには数か月かかるだろう」と語っている。

一方で中絶反対派は強硬な姿勢を崩しておらず、特にリック・ペリー前テキサス州知事に続いて、共和党選出で保守派で知られるグレッグ・アボット現テキサス州知事は「この決定は女性の健康と安全を保護するための州の立法権を脅かし、より多くの無垢な命が失われる危険をもたらす」との声明を出している。

そうした対立もあり、今回の最高裁判決が実際にテキサス州の中絶医療の現場をどう変えるのかは、今後の全米レベルでの類似の運動にも影響を及ぼすことは間違いなく、当ブログでも引き続き注目していきたい。

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テキサス独立に対するメキシコ人の認識はアメリカ人とこんなに違う

ヒューストンの東の郊外、ラ・ポルテと呼ばれる街にアメリカの首都ワシントンのワシントン・モニュメントに似たオベリスクがそびえ立っている。1836年にテキサスのメキシコからの独立を決定づけたサンジャシントの戦いを記念したモニュメントだ。モニュメントの最上部には、テキサス州の象徴であるローンスター(一つ星)の像が堂々と鎮座し、テキサスの人々はこのモニュメントはワシントン・モニュメントよりもローンスターの分だけ高いのだと誇らしく語る。(実際、サンジャシント・モニュメントは173m、ワシントン・モニュメントは169mでローンスターの像の分だけ高い。)IMG_0213

サンジャシント・モニュメントのウェブサイトはこちら↓

http://www.sanjacinto-museum.org/Monument/

そんな誇り高きモニュメントが記念するテキサス独立のあらましはこうだ。

19世紀前半、1819年恐慌に端を発する不況に苦しむアメリカにおいて、アメリカの実業家でスペイン臣民だったモーゼス・オースティンは、当時はスペイン領であったテキサスへアメリカ人入植者を呼ぶ計画を立て、スペインの承認を得る。しかし、時を同じくしてアグスティン・デ・イトゥルビデとサンタ・アナに率いられたメキシコの反乱軍は1821年にスペインからのメキシコの独立を勝ち取り、テキサスの新しい領有者となる。

同年、モーゼス・オースティンは志半ばで死亡し、彼の遺志を継いだ息子のスティーブン・オースティン(テキサス州の州都であるオースティンの由縁となっている人物)は、父親がスペイン政府から得ていたテキサスにおける権利をメキシコ政府との間でも保持すべく奔走し、結果として多くのアメリカ人がテキサス州に入植した。しかし、アメリカ人の急激な入植はメキシコ側の不信を生み、特に1834年にサンタ・アナがメキシコにおいて中央集権的な独裁者となってからはその対立は先鋭化する。

そして、1835年5月、アメリカでテキサス革命(Texas Revolution)と呼ばれる戦争が、テキサスのアメリカ人入植者とメキシコとの間で始まった。当初はテキサス軍が優勢であったが、メキシコの独裁者であるサンタ・アナ自身が反乱鎮圧のためにテキサス入りしてからはメキシコ軍有利に変わり、特にサン・アントニオのアラモ砦でテキサス軍の守備隊全員が殺害された、有名な「アラモの戦い」に至って、テキサス軍の不利は明確になる。

しかし、メキシコ軍はメキシコからの長距離の進軍により疲労の限界に来ていた。現在モニュメントがそびえ立つサンジャシントでメキシコ軍と対峙したテキサス軍は、サム・ヒューストン将軍(ヒューストンの由縁となっている人物)の指揮のもと、起死回生の反撃を行い、見事メキシコ軍を撃破、サンタ・アナを捕らえることに成功する。結果として、1836年5月、テキサスはテキサス共和国としてメキシコから独立し、更に1845年、テキサス共和国はアメリカ合衆国に加盟する。

と、ここまでアメリカ側から来たテキサス革命の歴史を見てきたが、一方で同じ歴史上の出来事を現代のメキシコ人はどう捉えているのだろう。ヒューストンの地元新聞であるHouston Chronicleの2016年3月1日付の記事What the Texas Revolution looked like to Mexicans(テキサス革命はメキシコ人にどの様に見えたか)にはメキシコ人側の全く違った見方が述べられている。

同記事によると、テキサス革命はInsurrección de los texanos(スペイン語でテキサスのアメリカ人入植者による反乱の意味)と捉えられている。テキサス革命はテキサスに来て間もないアメリカ人入植者が組織した民兵軍が引き起こした反乱であり、そしてその反乱は帝国主義的な膨張政策の初期にあったアメリカ合衆国政府によって支援されていたというのだ。更に、スティーブン・オースティンが民兵の反乱軍を組織したのは、奴隷による大規模プランテーションを実現するため、メキシコでは禁止されていた奴隷の保有を合法化するためであったとまで主張する。

アメリカ人とメキシコ人、どちらの主張が正しいかを判断することは本記事の目的ではない。本記事で読者の皆様に伝えたいのは、一つの歴史的出来事を巡って異なる見方が存在すること、そして、本件について言えば、そうした見方の対立は将来的に大きな問題となりうるということだ。

というのはこの数十年、テキサス州には合法・非合法を含めて、メキシコを中心とした多くのラティーノ系移民が移住している。我らがヒューストンでは、ラティーノ系人口がヒューストン全体の人口の中でのマジョリティとなっている程だ。とは言え、ラティーノ系人口は経済的にも政治的にもまだまだマイノリティーではある。しかし、以前このブログで紹介したフリアン・カストロ氏の様に、ラティーノ系の政治家が連邦レベルや州レベルで政治の表舞台に登場した時、異なる歴史解釈をめぐる相互理解がより重要となるのは間違いないだろう。

テキサスのラティーノ系の二大政治家であるテッド・クルーズ氏とフリアン・カストロ氏についての記事はこちら↓

テッド・クルーズとフリアン・カストロ-テキサスのラティーノ系政治家達

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テッド・クルーズとフリアン・カストロ-テキサスのラティーノ系政治家達

5月3日、これまでアメリカ共和党による大統領選挙の予備選で善戦を続けてきたテキサス州選出のテッド・クルーズ(Ted Cruz)上院議員が、インディアナ州での敗北を受けて選挙戦からの撤退を表明した。終わってみれば、彼の敗北は予想できたものだったと思う。というのは、トランプ旋風の原動力となっていると思われる、アメリカ南部や中部に住む保守的な白人男性の怒り、社会保障や移民政策におけるリベラルなオバマ政治に対する怒りを取り込むには、キューバ系移民出身であるクルーズ氏のバックグラウンドは余りに不利だったからだ。

その意味を考えるために、日本ではあまり知られていないが、同じテキサス出身でここ数年で新星(Rising Star)として民主党内でメキメキと頭角を現し、ヒラリー・クリントン氏の副大統領候補の一人と目されているフリアン・カストロ(Julián Castro)現住宅都市開発長官とを比較してみたい。

まず、テッド・クルーズ氏。生まれこそカナダのアルバータ州でそのことをトランプ氏に批判されもしたが、1974年に4歳の時に家族でテキサス州ヒューストンに移住し、以降はテキサス州で育った。彼の父親は10代の頃に祖国キューバからアメリカに渡り、テキサスに移住後、プロテスタントの中でも保守的な福音主義の牧師となる。そうした家庭環境が、ラティーノ系でありながら、南部の保守的白人男性も驚く程に保守的な彼の政治的立場を形作ってきたと考えられる。彼はハーバード・ロー・スクールを卒業後、テキサス州の訴訟長官等を務め、2012年にテキサス州の上院議員に当選している。

自身もラティーノ系移民でありながら、クルーズ氏の公式ウェブサイトでは、トランプ氏に似た過激な移民政策を掲げている。彼はまず、メキシコとの国境により強固なフェンスを設置し、国境警備隊の数を3倍にすることで、これ以上の不法移民をブロックすることを主張する。その上で彼は、オバマ政権が進めてきた不法移民の一部合法化の政策を改め、よりアメリカ国民の利益に敵った新しい移民法制を作り上げることを謳っている。

しかし、クルーズ氏の場合、いかに過激な移民政策を掲げても、自分自身がそうして規制されるべきラティーノ系移民の一人として見られるというジレンマを抱えている。トランプ氏が保守的な白人男性像を体現しているのとは異なる。

一方のフリアン・カストロ氏にとって、ラティーノ系移民のバックグラウンドは大きな武器だ。

彼女の祖母は1920年、6歳の時に孤児としてメキシコを出て、テキサス州のサンアントニオにいた親戚の処に身を寄せた。彼女は小学校をドロップアウトし、残りの生涯をメイドや料理婦、ベビーシッターとして生計を立てながら、たった一人の子供であるカストロ氏の母親を育てた。カストロ氏の母親はメキシコ系移民の公民権運動であるチカーノ運動の活動家となり、そのことがクルーズ氏とは対比的なカストロ氏のリベラルな政治意識の源流となっている。カストロ氏は、クルーズ氏と同じくハーバード・ロー・スクールを卒業し、サンアントニオの市議を経て、2009年にサンアントニオの市長に当選する。

そして、彼を全米レベルで一躍有名にしたのは、2012年の民主党全国党大会における基調演説だ。2004年の党大会では、当時イリノイ州の州議会議員に過ぎなかったオバマ大統領を一躍有名にした歴史ある基調演説の責を引き受けたカストロ氏は、祖母が孤児としてアメリカに渡ってから約100年間で孫が政治家として注目を集めるに至る彼の家族の歴史に触れ、今でも多くの人々の記憶に残るスピーチを行った。

アメリカの公共ネットワークであるナショナル・パブリック・ラジオのウェブサイトにその基調講演の原稿が掲載されており、一部を引用すると、

My family’s story isn’t special. What’s special is the America that makes our story possible. Ours is a nation like no other, a place where great journeys can be made in a single generation. No matter who you are or where you come from, the path is always forward.

(私の家族の物語は特別ではありません。特別なのはアメリカという国が私達の物語を可能にしたことです。私達の国は他の国々とは異なり、グレート・ジャーニーが一つの世代においても可能な場所です。あなたが誰でどこから来たかに関わらず、道は常に前に開けているのです。)

America didn’t become the land of opportunity by accident. My grandmother’s generation and generations before always saw beyond the horizons of their own lives and their own circumstances. They believed that opportunity created today would lead to prosperity tomorrow. That’s the country they envisioned, and that’s the country they helped build.

(アメリカは偶然、機会に満ちた土地になったわけではありません。私の祖母の世代やその前の世代はいつでも、自分自身の人生や環境を超えた地平を見つめていました。彼らは現在の機会は明日の繁栄につながると信じていたのです。これこそが彼らが思い描き、建設を助けた国なのです。)

トランプ氏やクルーズ氏が高い壁を作ろうとしているテキサスとメキシコの国境、100年前にそこを渡ったカストロ家の物語は、まさにラティーノ系移民にとってのアメリカンドリームであり、アメリカという移民国家の理念を体現するものでもあるというわけだ。そうした彼のビジョンは、今後アメリカという国において、ラティーノ系住民の人口や政治的発言力が増えていくと予想される中、大きな力になり得る。

とは言え、テッド・クルーズ氏もまだ45歳。フリアン・カストロ氏に至っては41歳だ。ラティーノ系の政治家達がテキサスの、全米レベルの政治にどういった影響を与えていくか、長い目で注目していきたい。

写真はテキサス州エルパソ付近のメキシコ国境の風景。IMG_0017

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