日本のテキサスバーベキュー 横浜・タップルーム ディナー編

アメリカ南部テキサス州を代表する料理、テキサスバーベキュー。日本の様にグリルするのではなく、肉をスモークすることで独特の風味が味わえるのが特徴だ。以前の記事で、そんなテキサスバーベキューを日本で味わえる店として、横浜のタップルームを紹介したが、前回の訪問時はランチタイムということで食べられるメニューに限りがあった。今回、ディナーで再訪する機会を得たので、改めて紹介してみたい。

前回の記事はこちら↓

日本でテキサスバーベキューが食べられる店 横浜・タップルーム

夜空にイルミネーションが煌く港町、横浜。その横浜で明治時代のレトロな街並みを今に残すエリア、馬車道の一角にタップルームはある。IMG_0226

 

週末の夜に行くと、一階から三階まであるお店は、アメリカ人と思しきグループを含めて多くのお客でにぎわっていた。訪問客の多くは、テキサス出身であるオーナーが伊豆の修善寺のブルワリーで作っているというオリジナルのビールを飲んでいて、店には笑顔が広がっている。

前回の訪問時には、ランチタイムということで、私がテキサスバーベキューの王様だと思っているメニュー、牛肉のブリスケット(肩バラ肉)が無かったが、今回は無事に注文できた。IMG_0229

見た目はテキサスで見るブリスケットそのもの。味については、他のメニュー同様、本場と比べると食感がパサパサした感じがあるが、専用のバーベキューソースをつけて食べれば、十分に美味しい。

そして、今回の訪問で最も気に入ったのが、スモークソーセージ。テキサスでは、ブリスケット、ポークリブ、ソーセージの三つのメニューがTexas Trinity(三位一体)と呼ばれる程、ソーセージもテキサスバーベキューの代表的なメニューなのだが、タップルームのソーセージは、ソーセージの香ばしさにスモーキーな風味がよく加わっていて、おススメの味だ。IMG_0230

ちなみに、テキサス州ヒューストンの地元新聞であるHouston Chronicleの2016年3月25日付の記事、5 things newbies should know about Texas barbecue(新参者がテキサスバーベキューについて知るべき5つのこと)によると、一口にテキサスバーベキューと言っても、三つの種類があるそうだ。

まず、ヒューストン等のテキサス東部スタイルは、豚肉を中心としており、トマトや酢をベースとしたソースも特徴だという。一方、オースティンやダラス等のテキサス中央部のスタイルは、牛肉、特にブリスケットを重んじており、その地域に多いドイツやチェコ系の移民が持ち込んだスモーク技術が使われているのだという。また、サンアントニオ等のテキサス南部では、メキシコ系テキサス人の伝統であるバルバッコア、牛の頭を丸ごと地下のピットで料理するスタイルが使われているそうだ。それぞれのテキサスバーベキューのメニューを食べる際に、それがテキサスのどの地域で人気なのか知ってから食べると、より味わい深いだろう。

そして、今回の訪問で意外なヒットだったのが、バーベキューピザ。小さく切ったテキサスバーベキューが、四角いピザにトッピングされているメニューで、牛肉も豚肉もこんがり焼けたチーズとよく合う。本場テキサスではそんなメニューは見たことはないが、テキサスバーベキューとピザがマッチすることがわかった嬉しい瞬間だった。IMG_0231

ディナーまで食べて、筆者としては、横浜タップルームではテキサスバーベキューの魅力が十分に味わえると考えている。テキサスバーベキューを食べたいけれど、テキサスまで行くのは遠い、そんな方はぜひ横浜まで足を運んで頂きたい。

最後に今回の訪問に付き合ってくれた同じくテキサス好きの友人夫妻に感謝しています!ありがとうございました!!

馬車道タップルームの情報はこちら↓

住所: 〒231-0013 神奈川県横浜市 中区住吉町5−63−1
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画家マーク・ロスコがヒューストンで到達した極致ーロスコ・チャペル

アメリカのアートの中心と言えばニューヨークであることは否定できないが、ニューヨークで叶わなかった願望をアメリカ南部で叶えたアーティストもいる。20世紀半ばのアメリカで流行した抽象表現主義(Abstract Expressionism)の代表的な画家の一人として数えられるマーク・ロスコ(Mark Rothko)もその一人で、彼のアーティストとしての人生は、ヒューストンにある巨大な作品ロスコ・チャペルでその極致に達した。

マーク・ロスコ自身はその生涯において、自らが抽象表現主義のアーティストに区分されることを拒否していたが、彼は1950年代当時、巨大なキャンバスや均一な平面に代表され、アメリカ発の美術潮流であった抽象表現主義のアーティストの一人と目されていた。1958年、彼はニューヨークで新たにオープンするフォーシーズンズホテルのレストランに掲げる壁画の注文を受ける。巨大なキャンパスに均一な色彩を持つ長方形を複数並べるという、独自のスタイルを確立させつつあった彼は、苦心を重ねてその仕事に取り組むが、結局自らのアートが上品な雰囲気のレストランに展示されることが耐えられず、途中で制作を放棄してしまう。

一方、そんな彼の作品に注目したのが、当時ヒューストン在住で、全米でも有数の美術収集家、そして、フィランソロピストとしても知られていたドミニクとジョン・デ・メニル(Dominique and John de Menil)夫妻だった。夫のジョン・デ・メニル氏は、現在世界最大の石油サービス企業であるシュルンベルジェ(Schlumberger)の創業者の一人で、夫妻はヒューストンの石油ガス産業がもたらす富を、アートという形で社会に還元する活動に力を注いでいた。

また夫妻は、当時世界的に広がっていた、キリスト教の教会一致を目指す運動であるエキュメニカル運動、そして、その運動に触発された同時代のアーティスト達の、精神性や宗教性の高いアート作品に感銘を受けていた。マーク・ロスコの作品を気に入った夫妻は、彼であればそうした神聖な空間をヒューストンに作り出すことができると考え、1964年、マーク・ロスコにチャペルの壁画の制作を依頼する。

フォーシーズンズホテル向けの仕事での経験もあり、アートを鑑賞する空間にも強いこだわりを持っていたマーク・ロスコは、この依頼に6年もの歳月をかけて全力で取り組み、1970年の突然の自殺によって彼の最後の作品となったこのロスコ・チャペルは、彼のアーティストとしてのキャリアの極致と評価されるに至った。では、現在は無料で一般公開されているこの作品を、著者なりに解説してみたい。

ヒューストンのダウンタウンの喧騒から離れ、小さな八角形のチャペルに一歩足を踏み入れると、内部の静謐な雰囲気にまず驚かされる。そして、チャペルの中央に進んだ者は、マーク・ロスコが心血を注いだ14枚の壁画に囲まれることになる。7枚は黒、もう7枚は濃い紫色で、全て大きな長方形のキャンバスがほぼ均一に塗られており、見る者に対して、安易な具体的な解釈を許さない。また頭上では、天井に空けられた穴から太陽の光が淡く差し込み、この空間の神聖な雰囲気を高めている。

そして訪問者は、自らがアートを鑑賞しているという状況を超え、静謐な空気の中、自らの内面、更には、現実を超えた超自然的な存在と向き合っているとの感覚を持つに至る。ロスコ・チャペルのウェブサイトによると、創設者であるドミニク・デ・メニル氏はロスコ・チャペルについてこう語っている。

“The Rothko Chapel is oriented towards the sacred, and yet it imposes no traditional environment. It offers a place where a common orientation could be found – an orientation towards God, named or unnamed, an orientation towards the highest aspirations of Man and the most intimate calls of the conscience.”

(ロスコ・チャペルは神聖なものを志向している一方で、何か伝統的な環境を強いることはありません。ここは(訪れる者に)人類に共通の志向を見出す場所を提供します。その志向とはつまり、人によっては神と呼ぶもの、人類が最も熱望するもの、そして、意識の奥底から湧き上がる呼びかけに対する志向なのです。)

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上の写真はロスコ・チャペルの入り口を映したもの。残念ながら内部は撮影禁止だが、ヒューストンに滞在する際には、ぜひ一人のアーティストがキャリアの最後に到達した極致であるロスコ・チャペルを訪れ、神聖な雰囲気の中、アートを見た自分が何を見出すか確かめて頂きたい。

↓ロスコ・チャペルのウェブサイトはこちら。

http://rothkochapel.org/

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ヒューストンのダウンタウンまでの接続がテキサス新幹線の成功の鍵

当ブログは、アメリカ南部テキサス州の二大都市であるヒューストンとダラスを日本の新幹線技術を用いて約一時間半でつなぐプロジェクトである、テキサス新幹線(テキサス高速鉄道)プロジェクトを応援しており、現地の報道などから最新の状況を定期的にアップデートしている。

1月の記事「テキサス新幹線に対する沿線の人々の根強い反対」では、平和な生活を守りたい沿線の住民による根強い反対をもとに、テキサス州の一部の州議会議員が日本の佐々江駐米大使宛に、プロジェクトに反対する書簡を送ったことを紹介した。

前回の記事はこちら↓

テキサス新幹線に対する沿線の人々の根強い反対

その後テキサス新幹線プロジェクトは中止されることなく、次のステップとしては、今年の夏の終わり頃に環境影響報告書のドラフトが発表される予定になっているが、ここに来て、ヒューストン市の側からプロジェクトを後押しする様な動きが出てきた。

地元の新聞であるHouston Chronicle電子版の5月10日付の記事Houston really wants the proposed bullet train to make a stop downtown(ヒューストンは提案されている新幹線がダウンタウンに停車することを切望している)では、ヒューストン市が、テキサス新幹線のヒューストン側の終着駅からヒューストンのダウンタウンまでを別の鉄道でつなぐ可能性を調査するエンジニアリング会社を募集していることを紹介している。

というのは、現在のプロジェクトでは、テキサス新幹線のヒューストン側の終着駅は、市の中心であるダウンタウンから大きく外側の、US 290とLoop 610という二つの高速道路が合流する地点に作られる予定となっている。公共交通機関の貧弱なヒューストンでは、ダウンタウンまでレンタカーを利用するか、Uberやタクシーを利用するしかないが、この地点からダウンタウンの中心部までは渋滞がなくとも車で20分程度はかかり、朝夕のラッシュ時にはその倍以上かかることもある。

この不便さは、ヒューストンとダラスをつなぐ既存の交通手段である自家用車や飛行機と比べて、テキサス新幹線プロジェクトのネックになりうる。そこでヒューストン市側としては、ダウンタウンまで別の鉄道で接続する可能性を調査することで、市がプロジェクト全体の利便性を向上する余地があるか検討したいというわけだ。

既存の交通手段について触れた以前の記事はこちら↓

テキサス新幹線のある未来

Houston Chronicleの同記事によると、こうした市側の動きに対して、プロジェクトの実行主体である民間企業、テキサス・セントラル・パートナーズの広報担当であるリード氏は、同社は自社の計画の外部でのいかなる代替的な提案についても、自社の計画を「補足する」ものとして検討すると述べる一方、そうした追加の鉄道は公的な資金調達に基づく(テキサス・セントラル・パートナー自身は民間企業)とも述べたという。また、同社は引き続き2017年後半、遅くとも2018年前半でのプロジェクトの着工を予定している。

著者がヒューストンの人々との会話から考えるには、テキサス新幹線プロジェクトが既存の交通手段、特に所要時間が近い飛行機に対して魅力あるものとなるためには、ヒューストン及びダラス双方でのダウンタウンまでの接続が不可欠だと思われ、ヒューストン市が主導する調査が実行され、前向きな結果が出ることを期待したい。

写真はヒューストンの高速道路から見たダウンタウンの風景。

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テッド・クルーズとフリアン・カストロ-テキサスのラティーノ系政治家達

5月3日、これまでアメリカ共和党による大統領選挙の予備選で善戦を続けてきたテキサス州選出のテッド・クルーズ(Ted Cruz)上院議員が、インディアナ州での敗北を受けて選挙戦からの撤退を表明した。終わってみれば、彼の敗北は予想できたものだったと思う。というのは、トランプ旋風の原動力となっていると思われる、アメリカ南部や中部に住む保守的な白人男性の怒り、社会保障や移民政策におけるリベラルなオバマ政治に対する怒りを取り込むには、キューバ系移民出身であるクルーズ氏のバックグラウンドは余りに不利だったからだ。

その意味を考えるために、日本ではあまり知られていないが、同じテキサス出身でここ数年で新星(Rising Star)として民主党内でメキメキと頭角を現し、ヒラリー・クリントン氏の副大統領候補の一人と目されているフリアン・カストロ(Julián Castro)現住宅都市開発長官とを比較してみたい。

まず、テッド・クルーズ氏。生まれこそカナダのアルバータ州でそのことをトランプ氏に批判されもしたが、1974年に4歳の時に家族でテキサス州ヒューストンに移住し、以降はテキサス州で育った。彼の父親は10代の頃に祖国キューバからアメリカに渡り、テキサスに移住後、プロテスタントの中でも保守的な福音主義の牧師となる。そうした家庭環境が、ラティーノ系でありながら、南部の保守的白人男性も驚く程に保守的な彼の政治的立場を形作ってきたと考えられる。彼はハーバード・ロー・スクールを卒業後、テキサス州の訴訟長官等を務め、2012年にテキサス州の上院議員に当選している。

自身もラティーノ系移民でありながら、クルーズ氏の公式ウェブサイトでは、トランプ氏に似た過激な移民政策を掲げている。彼はまず、メキシコとの国境により強固なフェンスを設置し、国境警備隊の数を3倍にすることで、これ以上の不法移民をブロックすることを主張する。その上で彼は、オバマ政権が進めてきた不法移民の一部合法化の政策を改め、よりアメリカ国民の利益に敵った新しい移民法制を作り上げることを謳っている。

しかし、クルーズ氏の場合、いかに過激な移民政策を掲げても、自分自身がそうして規制されるべきラティーノ系移民の一人として見られるというジレンマを抱えている。トランプ氏が保守的な白人男性像を体現しているのとは異なる。

一方のフリアン・カストロ氏にとって、ラティーノ系移民のバックグラウンドは大きな武器だ。

彼女の祖母は1920年、6歳の時に孤児としてメキシコを出て、テキサス州のサンアントニオにいた親戚の処に身を寄せた。彼女は小学校をドロップアウトし、残りの生涯をメイドや料理婦、ベビーシッターとして生計を立てながら、たった一人の子供であるカストロ氏の母親を育てた。カストロ氏の母親はメキシコ系移民の公民権運動であるチカーノ運動の活動家となり、そのことがクルーズ氏とは対比的なカストロ氏のリベラルな政治意識の源流となっている。カストロ氏は、クルーズ氏と同じくハーバード・ロー・スクールを卒業し、サンアントニオの市議を経て、2009年にサンアントニオの市長に当選する。

そして、彼を全米レベルで一躍有名にしたのは、2012年の民主党全国党大会における基調演説だ。2004年の党大会では、当時イリノイ州の州議会議員に過ぎなかったオバマ大統領を一躍有名にした歴史ある基調演説の責を引き受けたカストロ氏は、祖母が孤児としてアメリカに渡ってから約100年間で孫が政治家として注目を集めるに至る彼の家族の歴史に触れ、今でも多くの人々の記憶に残るスピーチを行った。

アメリカの公共ネットワークであるナショナル・パブリック・ラジオのウェブサイトにその基調講演の原稿が掲載されており、一部を引用すると、

My family’s story isn’t special. What’s special is the America that makes our story possible. Ours is a nation like no other, a place where great journeys can be made in a single generation. No matter who you are or where you come from, the path is always forward.

(私の家族の物語は特別ではありません。特別なのはアメリカという国が私達の物語を可能にしたことです。私達の国は他の国々とは異なり、グレート・ジャーニーが一つの世代においても可能な場所です。あなたが誰でどこから来たかに関わらず、道は常に前に開けているのです。)

America didn’t become the land of opportunity by accident. My grandmother’s generation and generations before always saw beyond the horizons of their own lives and their own circumstances. They believed that opportunity created today would lead to prosperity tomorrow. That’s the country they envisioned, and that’s the country they helped build.

(アメリカは偶然、機会に満ちた土地になったわけではありません。私の祖母の世代やその前の世代はいつでも、自分自身の人生や環境を超えた地平を見つめていました。彼らは現在の機会は明日の繁栄につながると信じていたのです。これこそが彼らが思い描き、建設を助けた国なのです。)

トランプ氏やクルーズ氏が高い壁を作ろうとしているテキサスとメキシコの国境、100年前にそこを渡ったカストロ家の物語は、まさにラティーノ系移民にとってのアメリカンドリームであり、アメリカという移民国家の理念を体現するものでもあるというわけだ。そうした彼のビジョンは、今後アメリカという国において、ラティーノ系住民の人口や政治的発言力が増えていくと予想される中、大きな力になり得る。

とは言え、テッド・クルーズ氏もまだ45歳。フリアン・カストロ氏に至っては41歳だ。ラティーノ系の政治家達がテキサスの、全米レベルの政治にどういった影響を与えていくか、長い目で注目していきたい。

写真はテキサス州エルパソ付近のメキシコ国境の風景。IMG_0017

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これぞテキサスの味!ステーキハウス Taste of Texas

カウボーイ文化を色濃く残すテキサス州には、どの町にも数多くのステーキハウスがあるが、我らがヒューストンには、その名も「テキサスの味」というヒューストンを代表するステーキハウスがある。それが、Taste of Texas(テイストオブテキサス)である。

ヒューストンの西側、主要な高速道路であるI-10沿いにあるこのレストランは、毎晩夕方になると多くの人で賑わう。このレストランは予約を受け付けない方針を取っており、到着後30分程度は待つことを覚悟しなくてはならない。但し、待合室兼バーが設けられ、ポップコーンが無料で食べられるなどの配慮もされている。

待ち時間にすっかりお腹を空かせてテーブルに着くと、流石ヒューストンを代表するステーキハウスだけあって、テキサスでは滅多に見ることのない日本語のメニューを渡される。IMG_0160 (1)

このレストランは、Edd HendeeとNina Hendee夫妻が1977年にオープンし、1984年にテキサスで初めて証明書付きアンガスビーフを提供したというだけあって、ステーキの種類が豊富だ。ただ、著者としては、このレストランを初めに訪れた方には、ぜひトマホーク・リブアイ・ステーキに挑戦することをおススメしたい。

日本語のメニューにはこう書かれている。

「ステーキ通の中のステーキ通のお客様にお勧めいたします。プレートから飛び出す14インチ/約36センチ長さの38オンス/約1,077グラムの。お客様はこの最初のトマホークステークを決して忘れることはないでしょう!」

何ともステーキ好きの食欲とプライドをあおる言葉ではないだろうか。このレストランはもう何度も訪問しているが、私は半分以上はこのトマホーク・ステーキを注文している。

そしてさらに嬉しいのは、ステーキを注文後、希望者は店の奥に通され、ケースに並べられた肉の中から、自分が食べる肉を自分で選ぶことができる。実際には専門家でもない限り、どの肉がよりおいしいかを判断するかは困難なのだろうが、ステーキを食べるという課程を一つ一つ体験させてくれるのがテキサスらしい。IMG_1564

 

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肉を選んだ後は、バラエティー豊かなサラダバーでお好みのサラダやパンを選ぶことができ、ステーキが焼き上がるのを待っている間も退屈しない。ちなみに、キッチンで毎日焼き上げているというパンは、このレストランの隠れた名物と言える程おいしいので、ぜひ試してみて頂きたい。

そして十数分後、テーブルの上に待ちに待ったステーキが登場する。このレストランで最大の38オンス(約1,077グラム)のトマホーク・ステーキは「これぞ肉」とばかりに、プレートからはみ出してその存在感を主張している。IMG_1566

だからと言って決して大味ではなく、選び抜かれたアンガスビーフのリブアイは噛む程に柔らかく、肉汁が溢れ出て非常においしい。また、レモンペッパーやブルーチーズバターなどのトッピングも味に広がりをもたらし、大きなステーキでも最後まで飽きることがない。

更にこのレストランがすごいのは、その客がテキサスを初めて訪れたとわかると、カウボーイハットとスカーフを着用させた上で、カウボーイ風の写真を撮り、店を出る前にその写真をプレゼントしてくれるのだ。まさに「Taste of Texas」という名前を冠しているだけあってのテキサスらしいホスピタリティーで、著者はテキサスが初めての訪問者があった際には、できるだけこのレストランを体験してもらう様にしている。

単にステーキだけでなく、「テキサス」を体験できるステーキハウス、Taste of Texas。ヒューストンに来た際にはぜひ訪問して頂きたい。

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