ヒューストンにアートをもたらした女性とメニル・コレクション

アメリカの私営美術館を聞いて読者の皆様は何をイメージするだろうか。ニューヨークのメトロポリタン美術館だろうか。それとも、ロサンゼルスのゲティ美術館だろうか。

ことアートに関しては日本での知名度の低い我らがテキサス州ヒューストンであるが、実はヒューストンにも私営で運営され、メトロポリタンやゲティ美術館同様、入場料は無料で誰にでも開かれた美術館がある。それがメニル・コレクションである。

https://www.menil.org/

全米で最も都市計画が欠如した都市として知られ、雑然としたヒューストンの街並みの中、そこだけはヨーロッパを思わせる建物が並ぶ上品なエリア、ミュージアム・ディストリクトには、ヒューストンが誇る美術館や博物館が立ち並んでいる。その一角に静かに佇むメニル・コレクションは、20世紀のヒューストン随一のアート収集家でフィランソロピストでもあったドミニク・デ・メニルとジョン・デ・メニル夫妻のコレクションを収蔵し、1987年の開館以来、無料での開放を続けている。

収蔵品としては、ルネ・マグリット、マックス・エルンストやパブロ・ピカソなどシュルレアリスムや現代美術の名作が多い一方、同じ建物の別のスペースには、ネイティブ・アメリカンやアフリカの伝統的な美術品を展示したコーナーもあり、そのコレクションは約15,000点にも上る。

それでは、ドミニク・デ・メニルは如何にしてこれだけの私営美術館を築き上げたのだろうか。ヒューストンの地元新聞であるHouston Chronicle電子版の2016年6月16日付の記事、Dominique de Menil changed Houston, one art treasure at a time(ドミニク・デ・メニルはヒューストンを変えた、ある時期におけるアートの至宝)が彼女の波乱に満ちた生涯を紹介している。

ドミニクは1908年フランスで生まれ、彼女の父は現在でも世界最大の石油サービス企業であるシュルンベルジェ社の創業者であるシュルンベルジェ兄弟の一人であった。ドミニクが22歳の時に、ヴェルサイユのダンスパーティーで後に夫となるジョン・デ・メニルと出会い、一年後に結婚。ジョンはシュルンベルジェ社の重役となり、子供にも恵まれた夫婦は順風満帆な生活を送るはずだった。しかし、第二次世界大戦が勃発し、パリがナチスに占領されると、一家はアメリカに逃げ延び、シュルンベルジェの北米本社があるヒューストンに落ち着く。

最初は慣れないアメリカでの暮らしに苦労したが、成せば成るの精神が根付くテキサスの気風を気に入った夫妻は、フランスでのアートに対する知見をもとに、美術品の収集を始める。コレクションが増えるにつれ、夫妻の情熱はヒューストンにアートのコミニュティを作ることに広がり、自身のコレクションの一部をヒューストンの美術館や大学に寄贈していく。そして、遂には、自分たち自身の美術館の設立に至るのである。

アメリカに移住後カトリックに改宗した夫妻にとって、アートと自らの信仰は深く結びついており、美術品の収集においても、深い精神性を持った作品を志向した。1997年に亡くなったドミニクはかつてこう書いている。

Through art, God constantly clears a path to our hearts.

(アートを通して、神は絶え間なく私たちの心に至る道を示すのです。)

筆者として興味深く思うのは、そうした信仰心に根差した彼女が、自身の信じるカトリック、より広くキリスト教にまつわる作品だけでなく、ネイティブ・アメリカンやアフリカの伝統的美術品にも、人間の根源的な精神性を見出し、充実したコレクションを形成したことだ。以前このブログでも紹介したが、夫妻がアメリカの抽象表現主義の大家であるマーク・ロスコに依頼して建造し、メニル・コレクションに隣接するロスコ・チャペルも、宗教を問わないチャペルとして万人に開かれている。

↓ロスコ・チャペルについて以前書いた記事はこちら

画家マーク・ロスコがヒューストンで到達した極致ーロスコ・チャペル

アメリカでも最も人種や民族的に多様性に富んだ都市の一つであるヒューストン。その都市でドミニク・デ・メニルが死後20年程が経った今でも多くの人々から尊敬され、メニル・コレクションには絶え間なく人が訪れる理由は、苦難の人生を経験した彼女だからこそ、特定の宗教の内に閉じることのない、広い視野に立った精神性を持っていたからだと思う。

↓下の写真はメニル・コレクションの展示品の前で行われていた無料コンサート

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