ヒューストンバレエ団が来日公演!―千葉との絆―

この週末、我らがテキサス州ヒューストンが誇るヒューストンバレエ団が千葉県千葉市美浜区で初めての日本公演を開催している。ヒューストンバレエ団が千葉での公演に至ったのは、ヒューストンと千葉との絆、そして関係者の粘り強い努力によるものだった。

ヒューストンというと、石油の街をイメージする人が多いと思う。しかし、実際にはヒューストンはバレエやオペラ、オーケストラなど多数の文化団体を有するアートの街で、特にヒューストンバレエ団は1969年設立の歴史ある団体だ。多文化の街ヒューストンらしくダンサーの文化的背景も様々で、特に日本人ダンサーは現在6人も集まっている。

そんなヒューストンバレエ団に長く貢献してきた日本人ダンサーが、2016年まで12年間ヒューストンのステージに立ち続けていた楠崎なおさんだ。愛媛県で生まれた楠崎さんは10歳の時に家族とともに渡米し、最初はワシントンDC、次いでボストンで暮らす。ボストンでバレエのトレーニングを積み、ボストンバレエ団のダンサーとなった楠崎さんは、ヒューストンバレエ団の芸術監督であるスタントン・ウェルチの作品に感銘を受け、後にヒューストンバレエ団に移籍する。

楠崎さんはダンサーとしての活躍とともに、芸術が周りの人々に対して何ができるのかを考え続けてきた人でもあった。2011年の東日本大震災の後には、ヒューストンバレエ団によるチャリティーイベントを企画し、また、2015年には日本の昔話に基づく創作バレエ作品である『TSURU』を手掛けた。

そんな楠崎さんにとってヒューストンバレエ団の日本公演は長年のプロジェクトであった。ヒューストンと千葉市が今年で45周年となる姉妹都市であること、そして、先述の『TSURU』の振付を手掛けた小尻健太氏の地元が千葉市美浜区であることの縁もあったが、何よりも楠崎さんを中心とした関係者の粘り強い努力によって、今回の公演が実現したものだ。

公演初日の7月22日、会場となった美浜市民ホールには、多くの観客が詰めかけ、創作バレエと古典バレエ作品を組み合わせたプログラムに酔いしれた。第一部の『TSURU』ではヒューストンバレエ団で長きにわたってステージを共にした楠崎さんと吉山シャール氏の息の合ったダンスが観客を魅了し、第三部ではスタントン・ウェルチの振付作品を踊るヒューストンバレエ団の多くのダンサー達のパフォーマンスを、同じくヒューストンで活躍するピアニストである三牧可奈さんの演奏が彩った。

ダンサー達は今回の日本公演後、休む暇なくヒューストンに戻り、次のシーズンに向けた練習を続けるという。これからも新たな挑戦を続けるヒューストンバレエ団に期待したい。

ヒューストンにアートをもたらした女性とメニル・コレクション

アメリカの私営美術館を聞いて読者の皆様は何をイメージするだろうか。ニューヨークのメトロポリタン美術館だろうか。それとも、ロサンゼルスのゲティ美術館だろうか。

ことアートに関しては日本での知名度の低い我らがテキサス州ヒューストンであるが、実はヒューストンにも私営で運営され、メトロポリタンやゲティ美術館同様、入場料は無料で誰にでも開かれた美術館がある。それがメニル・コレクションである。

https://www.menil.org/

全米で最も都市計画が欠如した都市として知られ、雑然としたヒューストンの街並みの中、そこだけはヨーロッパを思わせる建物が並ぶ上品なエリア、ミュージアム・ディストリクトには、ヒューストンが誇る美術館や博物館が立ち並んでいる。その一角に静かに佇むメニル・コレクションは、20世紀のヒューストン随一のアート収集家でフィランソロピストでもあったドミニク・デ・メニルとジョン・デ・メニル夫妻のコレクションを収蔵し、1987年の開館以来、無料での開放を続けている。

収蔵品としては、ルネ・マグリット、マックス・エルンストやパブロ・ピカソなどシュルレアリスムや現代美術の名作が多い一方、同じ建物の別のスペースには、ネイティブ・アメリカンやアフリカの伝統的な美術品を展示したコーナーもあり、そのコレクションは約15,000点にも上る。

それでは、ドミニク・デ・メニルは如何にしてこれだけの私営美術館を築き上げたのだろうか。ヒューストンの地元新聞であるHouston Chronicle電子版の2016年6月16日付の記事、Dominique de Menil changed Houston, one art treasure at a time(ドミニク・デ・メニルはヒューストンを変えた、ある時期におけるアートの至宝)が彼女の波乱に満ちた生涯を紹介している。

ドミニクは1908年フランスで生まれ、彼女の父は現在でも世界最大の石油サービス企業であるシュルンベルジェ社の創業者であるシュルンベルジェ兄弟の一人であった。ドミニクが22歳の時に、ヴェルサイユのダンスパーティーで後に夫となるジョン・デ・メニルと出会い、一年後に結婚。ジョンはシュルンベルジェ社の重役となり、子供にも恵まれた夫婦は順風満帆な生活を送るはずだった。しかし、第二次世界大戦が勃発し、パリがナチスに占領されると、一家はアメリカに逃げ延び、シュルンベルジェの北米本社があるヒューストンに落ち着く。

最初は慣れないアメリカでの暮らしに苦労したが、成せば成るの精神が根付くテキサスの気風を気に入った夫妻は、フランスでのアートに対する知見をもとに、美術品の収集を始める。コレクションが増えるにつれ、夫妻の情熱はヒューストンにアートのコミニュティを作ることに広がり、自身のコレクションの一部をヒューストンの美術館や大学に寄贈していく。そして、遂には、自分たち自身の美術館の設立に至るのである。

アメリカに移住後カトリックに改宗した夫妻にとって、アートと自らの信仰は深く結びついており、美術品の収集においても、深い精神性を持った作品を志向した。1997年に亡くなったドミニクはかつてこう書いている。

Through art, God constantly clears a path to our hearts.

(アートを通して、神は絶え間なく私たちの心に至る道を示すのです。)

筆者として興味深く思うのは、そうした信仰心に根差した彼女が、自身の信じるカトリック、より広くキリスト教にまつわる作品だけでなく、ネイティブ・アメリカンやアフリカの伝統的美術品にも、人間の根源的な精神性を見出し、充実したコレクションを形成したことだ。以前このブログでも紹介したが、夫妻がアメリカの抽象表現主義の大家であるマーク・ロスコに依頼して建造し、メニル・コレクションに隣接するロスコ・チャペルも、宗教を問わないチャペルとして万人に開かれている。

↓ロスコ・チャペルについて以前書いた記事はこちら

画家マーク・ロスコがヒューストンで到達した極致ーロスコ・チャペル

アメリカでも最も人種や民族的に多様性に富んだ都市の一つであるヒューストン。その都市でドミニク・デ・メニルが死後20年程が経った今でも多くの人々から尊敬され、メニル・コレクションには絶え間なく人が訪れる理由は、苦難の人生を経験した彼女だからこそ、特定の宗教の内に閉じることのない、広い視野に立った精神性を持っていたからだと思う。

↓下の写真はメニル・コレクションの展示品の前で行われていた無料コンサート

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画家マーク・ロスコがヒューストンで到達した極致ーロスコ・チャペル

アメリカのアートの中心と言えばニューヨークであることは否定できないが、ニューヨークで叶わなかった願望をアメリカ南部で叶えたアーティストもいる。20世紀半ばのアメリカで流行した抽象表現主義(Abstract Expressionism)の代表的な画家の一人として数えられるマーク・ロスコ(Mark Rothko)もその一人で、彼のアーティストとしての人生は、ヒューストンにある巨大な作品ロスコ・チャペルでその極致に達した。

マーク・ロスコ自身はその生涯において、自らが抽象表現主義のアーティストに区分されることを拒否していたが、彼は1950年代当時、巨大なキャンバスや均一な平面に代表され、アメリカ発の美術潮流であった抽象表現主義のアーティストの一人と目されていた。1958年、彼はニューヨークで新たにオープンするフォーシーズンズホテルのレストランに掲げる壁画の注文を受ける。巨大なキャンパスに均一な色彩を持つ長方形を複数並べるという、独自のスタイルを確立させつつあった彼は、苦心を重ねてその仕事に取り組むが、結局自らのアートが上品な雰囲気のレストランに展示されることが耐えられず、途中で制作を放棄してしまう。

一方、そんな彼の作品に注目したのが、当時ヒューストン在住で、全米でも有数の美術収集家、そして、フィランソロピストとしても知られていたドミニクとジョン・デ・メニル(Dominique and John de Menil)夫妻だった。夫のジョン・デ・メニル氏は、現在世界最大の石油サービス企業であるシュルンベルジェ(Schlumberger)の創業者の一人で、夫妻はヒューストンの石油ガス産業がもたらす富を、アートという形で社会に還元する活動に力を注いでいた。

また夫妻は、当時世界的に広がっていた、キリスト教の教会一致を目指す運動であるエキュメニカル運動、そして、その運動に触発された同時代のアーティスト達の、精神性や宗教性の高いアート作品に感銘を受けていた。マーク・ロスコの作品を気に入った夫妻は、彼であればそうした神聖な空間をヒューストンに作り出すことができると考え、1964年、マーク・ロスコにチャペルの壁画の制作を依頼する。

フォーシーズンズホテル向けの仕事での経験もあり、アートを鑑賞する空間にも強いこだわりを持っていたマーク・ロスコは、この依頼に6年もの歳月をかけて全力で取り組み、1970年の突然の自殺によって彼の最後の作品となったこのロスコ・チャペルは、彼のアーティストとしてのキャリアの極致と評価されるに至った。では、現在は無料で一般公開されているこの作品を、著者なりに解説してみたい。

ヒューストンのダウンタウンの喧騒から離れ、小さな八角形のチャペルに一歩足を踏み入れると、内部の静謐な雰囲気にまず驚かされる。そして、チャペルの中央に進んだ者は、マーク・ロスコが心血を注いだ14枚の壁画に囲まれることになる。7枚は黒、もう7枚は濃い紫色で、全て大きな長方形のキャンバスがほぼ均一に塗られており、見る者に対して、安易な具体的な解釈を許さない。また頭上では、天井に空けられた穴から太陽の光が淡く差し込み、この空間の神聖な雰囲気を高めている。

そして訪問者は、自らがアートを鑑賞しているという状況を超え、静謐な空気の中、自らの内面、更には、現実を超えた超自然的な存在と向き合っているとの感覚を持つに至る。ロスコ・チャペルのウェブサイトによると、創設者であるドミニク・デ・メニル氏はロスコ・チャペルについてこう語っている。

“The Rothko Chapel is oriented towards the sacred, and yet it imposes no traditional environment. It offers a place where a common orientation could be found – an orientation towards God, named or unnamed, an orientation towards the highest aspirations of Man and the most intimate calls of the conscience.”

(ロスコ・チャペルは神聖なものを志向している一方で、何か伝統的な環境を強いることはありません。ここは(訪れる者に)人類に共通の志向を見出す場所を提供します。その志向とはつまり、人によっては神と呼ぶもの、人類が最も熱望するもの、そして、意識の奥底から湧き上がる呼びかけに対する志向なのです。)

menil

上の写真はロスコ・チャペルの入り口を映したもの。残念ながら内部は撮影禁止だが、ヒューストンに滞在する際には、ぜひ一人のアーティストがキャリアの最後に到達した極致であるロスコ・チャペルを訪れ、神聖な雰囲気の中、アートを見た自分が何を見出すか確かめて頂きたい。

↓ロスコ・チャペルのウェブサイトはこちら。

http://rothkochapel.org/

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アメリカ南部の歌姫ビヨンセのニューアルバムLemonadeが持つメッセージ

4月23日、我らがヒューストン出身の歌姫ビヨンセのニューアルバム、「Lemonade」が彼女の夫であるJay Zがプロデュースする音楽配信サービスであるTidalで限定配信され、世界中で大きな人気を集めている。そして、彼女は4月27日のフロリダ州マイアミでの公演を皮切りに、4か月に及ぶワールドツアー、The Formation World Tourをスタートさせた。
このアルバムの中でも、2月6日に先行発表され、翌日2月7日のスーパーボウルのハーフタイムショーでも披露された曲「Formation」は極めてメッセージ性の高い曲となっていて、アメリカ南部を深く知る上でも役立つと思うので、当ブログなりに考察してみたい。

まず、Formationのミュージックビデオは、What happened at the new Orleans?(ニューオーリンズで何が起こったんだ?)という男性のラップとともに、洪水に沈んだニューオーリンズの街に浮かぶパトカーの上に座ったビヨンセが登場する。

この洪水の風景は明らかに、2005年に発生し、ニューオーリンズの街に壊滅的な被害を与え、今でもその影響の残るハリケーン・カトリーナを表現している。ニューオーリンズでは当時、黒人の低所得者層の多い地域が、政府による対応の遅れもあり、略奪や暴行の横行する無法地帯と化し、州兵による治安維持も行われた。

パトカーの上に乗ったビヨンセを映した映像は、その後、警察官を映した映像に切り替わる。これは、そのハリケーン・カトリーナで根強く残る黒人への人種差別が浮き彫りになり、ここ最近も、白人警官による黒人の射殺事件が頻発している状況を示唆しているだろう。ビデオの後半ではより明示的に”Stop shooting us”(私達を撃つのはもうやめて)という過激なメッセージが映し出される。

各種メディアが指摘しているが、このFormationがリリースされた2月6日は、2012年にフロリダ州で白人警官に射殺されたTrayvon Marin少年の誕生日である2月5日、2015年にテキサス州で白人警官に逮捕された後に刑務所で自殺したSandra Blandの誕生日である2月7日の間の日にちとなっている。二人の死は、最近の黒人による人種差別に対する抗議運動のシンボルとなっており、ビヨンセ側も意識していた可能性が高い。

そして、サビの部分では、そうして黒人を巡る暗い状況が示唆される中、ビヨンセが力強く歌い上げる。

My daddy Alabama, Momma Louisiana
You mix that negro with that Creole make a Texas bama
I like my baby heir with baby hair and afros
I like my negro nose with Jackson Five nostrils
Earned all this money but they never take the country out me
I got a hot sauce in my bag, swag

(私のお父さんはアラバマ生まれ、私のお母さんはルイジアナ生まれ。二人は黒人とクレオール(ルイジアナ州のフランス人やアフリカ系黒人等を先祖に持つ人々)を混ぜて、私というアラバマ系テキサスの人間を作ったの。

私は私の娘が黒人的なアフロの髪の毛を持ち、私のルーツを受け継いでいることが好きだし、ジャクソンファイブみたいな鼻の穴をした、私の黒人らしい鼻が好きなの。私は多くのお金を稼いだけど、誰も私のふるさとを取り上げることはできなかったの。

私はバッグの中にホットソース(ルイジアナやテキサスの人々が大好きな辛いソース)をいれたわ。)

つまり、ビヨンセは、黒人を巡る現代の暗い状況に対して、現代において最も成功を収めた黒人の一人として、自らが黒人としてのルーツに誇りを持っていることを強調しているのである。著者の知る限り、ビヨンセがここまで人種的なメッセージ性の強い曲を発表することは珍しく、鬱屈とした感情を抱える黒人住民達にも大きな勇気を与えているだろう。ミュージックビデオの後半では、軽快にダンスを踊った黒人の少年に対して、白人警官たちが降参の意味で両手を挙げるシーンも登場する。

人種に関わらずアメリカで最も多くの人々が見るスーパーボウルでは、Formationの持つ強いメッセージ性が大きな議論を呼んだ。今週から始まったワールドツアーでのビヨンセのパフォーマンスがどういった反響を呼ぶのか、引き続き彼女の動向に注目していきたい。

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ガルベストンのマルディグラのお祭り

アメリカでMardi Gras(マルディグラ)のお祭りと言えば、ルイジアナ州ニューオーリンズのものが有名だが、ここテキサス州でも、メキシコ湾に面した町ガルベストンで、全米で三番目に大きなマルディグラのお祭りが開催されている。今回はその魅力に迫ってみたい。

そもそもマルディグラというのは、フランス語で「太った火曜日」を意味し、もともとキリスト教カトリックにおいて重要な日である四旬節の前日を意味する。厳格なカトリックにおいては、四旬節に入ると食事の制限や祝宴などの快楽を自粛するため、その直前までの一定の期間に渡って、派手なカーニバルを行い、心も体も満たしておくというわけだ。カーニバルは太った火曜日にその絶頂を迎えるが、アメリカ南部では、太った火曜日当日だけでなく、カーニバル期間中のイベント全体がマルディグラと呼ばれている。

ガルベストンのマルディグラの歴史は古く、2016年の今年で105回目を数える。マルディグラ期間になると、パレードの順路になっている家々では、マルディグラを象徴する色である紫、緑、金色で飾り付けが行われる。紫は正義、緑は信頼、金は権力を意味しているという。IMG_1291

この三色は、家の装飾だけでなく、マルディグラに関わる色々な物を通して使用されており、通りを歩けば、三色をベースにした派手な衣装で着飾った人々にも出会える。IMG_1285

マルディグラの主役は何と言ってもパレードだ。Krew(クルー)と呼ばれる団体がそれぞれ思い思いにド派手に装飾した山車(フロートと呼ばれる)を造り、市内を練り歩く。昼過ぎにガルベストンの海岸沿いの通りを歩くと、いくつものフロートがひしめき、自分達の出番を今か今かと待っていた。IMG_1286

そして、夜になると、祭りは最高の盛り上がりを迎える。パレードが始まると、まず地元の各高校のマーチングバンドが日頃の練習の成果を披露する。彼らはこの日のために何ヶ月も練習を積んでいるそうで、高校生とはいえレベルは高い。IMG_1308

次に、昼間も派手さが際立っていた各フロートが、過剰なまでの電飾で怪しい光を放ちながら通りを練り歩く。IMG_1306

フロートからは沿道に対して、次々と紫、緑、金色のどれかの色をしたビーズの首飾りが投げられ、観光客達は手を伸ばしてビーズを奪い合う。ビーズを受け取った者は皆首に次々とかけていくため、パレードが終わる頃には観光客達は、何重にもかけられた首飾りで、まるでヒップホップのラッパーの様ないでたちになる。IMG_1315

IMG_1301普段は異なる生活環境にいる人達がこの日ばかりは分け隔てなく、子供の様に夢中になってビーズを集める。祭りの熱狂の中で、いつしか日頃のうっぷんもどこかに消えていく様な心地よいひと時だ。

日本ではあまり知られていないお祭りではあるが、カトリック教徒の多いアメリカ南部では多くの町で、その町ならではのマルディグラで盛り上がっている。マルディグラ期間中にアメリカ南部を訪れることがあれば、ぜひご当地マルディグラの魅力を発見して頂きたい。

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テキサスの田舎に突如現れるネイティブ・アメリカン風モーテル-Tee Pee Motel -

アメリカ南部という場所では、一旦都市部を離れれば、牧草地帯や荒野、砂漠の中をまっすぐに伸びる一本道の道路がどこまでも続く。「次の大きな町まで後100マイル」といった看板を見てげんなりすることもしばしばだが、そんな時の強い味方が、車を横付けしてすぐに休めるモーテルだ。価格も通常のホテルよりも大幅に安い。しかし、テキサス州の田舎のWhartonという町には、一度見たら忘れられない独特な外観のモーテルが存在する。今回は、そんなモーテルの様子を報告してみたい。

ヒューストンから南西に60マイル、Wharton(ウォートン)は人口九千人程の小さな町だ。しかし、馬が草をはむ平和な牧草地帯を車で走っていると突如としてそれは現れる。IMG_1229

草の上から、お菓子のトンガリコーンの様な形をした茶色の建物がニョキッと突き出している。しかも、一つならまだしも、同じ形の建物が等間隔にいくつも並んでいる様子は見る者に強烈な印象を与える。更には、建物が並ぶ横には、何故か地面に矢まで突き刺さっている。IMG_1224

そこで上を見上げると、歴史の教科書に出てきそうな、いかにもな服装をしたネイティブ・アメリカンの男性が手招きをしている看板が立っているのだ。そう、ここはTee Pee Motelという現在も営業中のれっきとしたモーテルだ。IMG_1231

実は、こうした形のモーテルは、1930年代から1940年代のアメリカでWigham Motelという名前で一世を風靡した。アメリカ中西部や南部のネイティブ・アメリカン達は伝統的に、動物の皮で作ったテント型の住居、Tipi(ティーピー)で生活していたが、1933年にケンタッキー州に住むフランク・レッドフォード氏がティーピーの形を模したモーテルを作ったのがその始まりだ。今では当時のWigham Motelは文化財に指定されている。

ここWhartonにも当時、Wigham Motelに似たティーピー型のモーテル、その名もズバリTee Pee Motelが立てられたが、いつしか流行も去り、建物は長い間、雑草の中に埋もれていた。しかし、Tee Pee Motelが数奇な運命に巡り合わせたのは、13年前の2003年。

アメリカの三大ネットワークの一つNBCの電子版の2007年9月10日付けの記事、My Teepee or yours?(私のティーピー、それともあなたの?)によると、事の経緯はこうだ。ディーゼルの整備士をしていたバイロン・ウッズ氏は2003年のある日、宝くじで4,900万ドルもの大金を手にする。数ヵ月後、ウッズ氏と妻のバーバラさんがTee Pee Motelの廃墟の前を偶然通りかかった時、バーバラさんは自らの夫にこう言った。

“I want to stay there. Let’s buy it and renovate it.”(私はここに泊まりたいわ。ここを買って、建て直しましょう。)

実はバーバラさんにとっては、Tee Pee Motelに泊まるのが幼い頃からの夢だったのだという。数ヶ月間悩んだ後、ウッズ氏は妻の長年の夢を叶えることを決意し、その後の二年もの歳月をTee Pee Motelの再建に費やした。自らの祖母がネイティブ・アメリカンのコマンチェ族でもある彼は、NBCの取材に対して、こう語っている。

“This wasn’t about making money. It’s having something no one else has,” “This is a piece of Texas history.”(これは金儲けのためじゃなく、他の誰も持っていないものを手にするってことなんだ。そして、これはテキサスの歴史の一部なんだ。)

ウッズ氏の努力により、それぞれのティーピーは現代風に建て直され、建物の内部にはエアコンやTV、インターネットまで完備されているという。また、ティーピーの目の前には、バーベキューグリルも設置されている。IMG_1226

 

アメリカは歴史の少ない国と言われることがあるが、Tee Pee Motelを巡る経緯を一つ取ってみても、そこには、アメリカなりの歴史、そして、その歴史を生きてきた人達の思いが確かにある様に感じる。今回の訪問では宿泊することまではできなかったが、いつかティーピーの中で、アメリカの歴史に思いを馳せてみたい。

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テキサス流の巨大で多様な冬のイルミネーション

日本では各都市が冬のイルミネーションの美しさを競い合うシーズンが到来した。これまでここテキサス州ヒューストンではあまり有名なイルミネーションがなかったが、この冬、ヒューストンらしい、巨大かつ多様性に富んだイルミネーションが登場し、地元の人達を興奮の渦に包んでいるので紹介してみたい。

ヒューストンの主要環状高速道路であるSam Houston Toll Wayの北側を運転していると、それは突如として登場する。IMG_0795

Magical Winter Lightsと題されたこのイベントを訪れた者は、まずその巨大さに圧倒される。普段はヒューストン競馬場として使用されている場所を使っているだけあって、広大なスペースに巨大なイルミネーションが豪快に展示されている。IMG_0796

そして次に驚かされるのが、イルミネーションのテーマの多様性だ。ヒューストンの人種的民族的な多様性を象徴するかの様に、米州、ヨーロッパ、アジア、アフリカ等のエリアに分けられた会場内では、各エリアを代表する建物を模したイルミネーションが次々と登場する。ここでいくつか紹介してみよう。

まずはロシア・モスクワの聖ワシリイ大聖堂。IMG_0802

次は、中国。IMG_0805

細部は怪しいところもあるエジプト。IMG_0810

ラティーノの人達に人気だったメキシコのマヤ文明のピラミッド。IMG_0813

そしてもちろん、我らがヒューストン。IMG_0816

イベントの主催者であるYusi Anさんは、地元のオンラインメディアであるHouston Pressのインタビューに対して、このイベントにかける思いを語っている。

Anさんの家族はランタン祭りが盛んな中国四川省の出身で、過去5年間のアメリカでの生活を経て、ヒューストンの多様な人口構成と、冬でも比較的温暖な気候に出会い、世界中のランドマークをテーマにして中国のランタン祭りを再現しようと決意したという。世界のランドマークを再現したイベントは他にもあるだろうが、それぞれのランドマークに対して、それぞれの国・地域の出身の人々が自分達の文化を発見して、その美しさに感動できるのは、ヒューストンならではだ。

ただ、来年以降に期待したいことがあるとすれば、主催者の出身である中国のエリア等は完璧に作りこまれているが、一部の地域については、時間的に間に合わなかったのか、予算が足りなかったのか、少々適当になっているのが残念ではある。例えば南極のエリアでは、ボーリングのピンの様なペンギンが若干不気味だ。

IMG_0820

しかし、全体としては大満足なイルミネーションで、今回の時点で、地元の人達の心を鷲づかみにしていることは間違いない。来年以降、更に完成度を増して、全米レベルで有名なイベントに成長することを期待したい。

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テキサスの砂漠の中にあるプラダ-Prada Marfa-

現代社会、特にファッション業界では、最新の流行は常に再生産されている。毎年、その年に流行すべきデザインが大々的な宣伝によって、大衆心理の間に浸透し、そのブランドの最新の服を身に着けることで、共有された「今」を消費することができる。一方で、そんな最新の流行も一年も経てばすぐに時代遅れになり、店頭から撤去された商品はあたかも最初から存在しなかったかの様に消え去ってしまう。

しかし、ここテキサス州西部の砂漠地帯には、2005年のコレクションを永久に陳列するプラダが存在する。永遠の「今」を生きようとする現代の人々に、抗いがたい時間の流れを見せつけようとするかの様に。

テキサス州西部のメキシコとの国境に近い辺りは、どこまで行っても背の低い植物がまばらに点在するだけの砂漠地帯が広がる。しかし、高速道路であるI-10をVan Horn(バン・ホーン)で南に曲がり、ルート90を南に40マイル程進むと、突如として道端に回りの風景と全くそぐわないものが現れる。IMG_0722
IMG_0714一見変電所かトイレか何かだと思うのだが、掲げられている看板はどうみても世界的なファッションブランドのプラダである。いかに周りと比べて違和感があるかをご理解頂くために両側の風景もご覧頂きたい。IMG_0724IMG_0725

ご覧の通り、店の両側には50年前も変わらなかったであろう砂漠の風景が広がっている。しかも、店の中に目を向けると、確かにプラダのものと思われるバックや靴がところ狭しと並べられている。IMG_0716

しかし、すぐに違和感に気づく。まず、どこにも店員の姿がない。それに陳列されている商品もどことなく一昔前の物の様に見える。

 

実はこれ、北欧出身のアート集団であるElmgreen and Dragsetがプラダの公認を得て2005年に制作した「Prada Marfa」と呼ばれる現代アートなのだ。プラダの2005年コレクションを陳列した上で、一切の修復を施さず、次第に風化していくに任せることそれ自体が、現代の物質主義への批判を込めたアートとなっている。

しかし実際には、Prada Marfaの過去10年の道のりは、「次第に風化していく」といった様な穏やかなものではなかった。完成して6日後以降、中の商品はたびたび盗難に合い、落書きの被害も何度も発生している。製作者側としては、苦肉の策として、靴は片方だけ、バックは底を切り取って展示することとなる。(上の店内の写真をもう一度見て頂きたい。)更に、2013年には、テキサス交通局から、不法な道路上の広告物とみなされてしまう。

現代の物質主義への壮大な批判を行う前に、そうした物質主義に染まった個別の人々への対処が必要だったわけであるが、関係者達はこの息の長いプロジェクトを成功させようと粘り強い努力を行っており、2014年9月にはテキサス交通局とも、Prada MarfaをMuseumと識別することで合意する。(2014年9月12日のHouston Chronicle電子版の記事)

絶え間なく最新の流行が再生産、消費され、廃棄される現代社会。50年後の未来に、21世紀初頭の「今」を思い起こさせるものがどの程度残されているだろうか。このPrada Marfaがゆるやかな風化を経て、「今」、そして「今」からの時間の経過を伝えるアートとなっていることを願いたい。

※なお、実際に訪問する場合、Prada MarfaはMarfaという名前がついてはいるが、実際のMarfaの町はそこから更に南東に40マイル程行った場所にあり、このアート作品はValentineという町に位置していることに注意して頂きたい。

 

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